LOGINあれから三日が経った。
医局にも行かず、もぬけの殻になった蘭瑛《ランイン》は自室の窓を開け、寝台の上で仰向けになりながら、流れてくる雲を追いかけた。ただひたすらに移り行く空模様が、一方的に刻まれる時の流れを無常に映し出す。 四日前まで秀綾《シュウリン》は確かに存在していた。 それなのに、その存在は蝋燭の火が突然吹き消されたかのように、一瞬で跡形もなく消え失せた。 (秀綾《シュウリン》に会いたい…) そんな思いが脳裏を巡り、蘭瑛はまた静かに枕を濡らす…。 秀綾《シュウリン》の死は、医局や患者たちの間でも衝撃的な悲報だった。深い悲しみが広がり、皆、黒い玉佩《ぎょくはい》を腰からぶら下げて喪に服した。江《ジャン》医官や金《ジン》医官が時々部屋を訪ねてきてくれたが、蘭瑛は「一人にして…」と周りの優しさに上手く応えられないままだった。 しかし、昼下がり。 そうも言ってられない一通の簡素な手紙が、蘭瑛の元に届く。そこには達筆な字で「至急、紫王殿《しおうでん》へ来るように」とだけ書かれてあった。 これは恐らく永憐の字だろう…。 蘭瑛は色んな意味で、深い溜め息を吐いた。 それもそのはず。 美朱妃《ミンシュウヒ》という淑妃に深傷を負わせた罪はどんな罪人よりも重い。いかなる理由があろうと何かしらの処罰は受けなければならないだろう。それに、国師という立場にいる永憐にも悪態をついた。打首は免れたとしても、医官の剥奪と禁足、もしくは追放のどれかが妥当であると蘭瑛は考えた。 蘭瑛は重い腰をあげ、乱れた衣だけ簡単に整える。 泣き腫らした顔に何を塗っても意味がないと、白粉《おしろい》は付けず、髪も下ろしたままの姿で、紫王殿へ向かった。 何回かこの紫王殿に足を運んだことはあるが、今日ほど憂鬱な気分だったことはない。蘭瑛は重い足取りの中、急な階段を登り、紫王殿の前まで辿り着いた。 呼吸を整え、護衛の一人に声を掛ける。 「医局の蘭瑛です。こちらに来るようにと言われました」 蘭瑛は受け取った紙を広げ、護衛に見せる。 護衛はすぐに蘭瑛を中へ案内し、宋武帝のいる客室に連れて行く。 「蘭瑛医官をお連れいたしました」 「入れ」 宋武帝の声は、普段よりも低く感じた。 蘭瑛は恐る恐る中へ入る。するとそこには、賢耀《シェンヤオ》と永憐《ヨンリェン》と宇辰《ウーチェン》、美朱妃《ミンシュウヒ》と美朱妃の侍女たち、そして光華妃《コウファヒ》と光華妃の侍女頭が向かい合うように座っていた。 牙を向く恐ろしい視線が蘭瑛を突き刺す。 しかし、蘭瑛はその視線を躱すように、全員に向けて拱手する。 「遅くなり、申し訳ありません」 「構わん。面《おもて》を上げよ」 宋武帝の低い声に従い、蘭瑛はゆっくり頭を上げた。 永憐は蘭瑛の顔を見ることもなく、何かを考えているかのように遠くを見つめている。すると、突然光華妃が立ち上がり蘭瑛の元へ歩いていく。そして持っていた扇子の親骨《おやぼね》部分を差し出し、蘭瑛の頬を勢いよく叩いた。 バチンという音が大きく響き、蘭瑛の頬が赤く腫れ上がる。蘭瑛は手で頬を覆い、奥歯を噛み締めた。全身に電流が流れるかのように、悔しさと殺意が体中を駆け巡る。 光華妃がその派手な扇子を開き、蘭瑛を一瞥しながら口火を切った。 「ほんと、目障りなのよね〜あなた。やっぱり因縁なのね、六華鳳宗と宋長安は」 「やめないか、光娘《コウミェン》!」 宋武帝が光華妃に向かって怒りを露わにした。 だが、今日の光華妃は血が騒いでいるのか、珍しく反抗する。 「なによ!六華鳳宗をよく思ってないくせに。この女が悪いんじゃない!あなたの淑妃に手を出したのはこの女なのよ!何か言ったらどうなの?!」 「ならば聞く。この連日の不祥事に、何故お前たちの名前が出てくるんだ?」 宋武帝が二人の妃に問い質した。美朱妃は何も言わず俯き、光華妃は「知らないわよ!」と白を切る。 堪忍の緒が切れたのか、賢耀は光華妃の態度に黙っていられず、永憐の横に立って怒鳴った。 「いい加減にしろよ!この人殺しが!俺を殺そうとし、蘭瑛先生を強姦に陥れ、蘭瑛先生の友人の医官を焼身させておいて、何が知らねーだよ!父上の前だからって、しらばくれてんじゃねーよ!」 光華妃の額に青筋が浮かぶ。癖のように扇子を勢いよく閉じ、憎しみを込めた目で賢耀を睨む。 「何を偉そうに。じゃ、私たちがやったっていう証拠を見せなさいよ。今すぐそれを持ってきなさい。何もないのにそうやってすぐに人のせいにするのは、あの紫の母親と一緒ね。あ〜、気持ちが悪い」 「何だと?!気持ち悪いのはあんたの方だろ!あ〜、そういえば、あんたの息子も気持ち悪いことしてんだったな〜。言ってやろうか、あんたの息子は男を…」 「二人ともいい加減にしろ!!」 賢耀の言葉を遮るように、宋武帝が怒声を響かせた。 その怒りは、雷獣の如く樹木を裂くような勢いだった。 二人は黙り、どちらも元の位置に戻る。 「永憐!お前はこの者をどうしたい?お前が決めろ」 宋武帝は蘭瑛を見ながら、声だけ永憐に向かって尋ねた。 永憐はというと、凍てつくような冷たさで床を見つめている。紫王殿の中は沈黙で静まり返り、異様な空気に包まれた。永憐はしばらく間を置いて、ようやくその口を開く。 「こたびの不祥事、この者に罪はないと認識しています。しかし、淑妃への行き過ぎた行為があったのは事実です。従って、この者を十日間の禁足処分とします。又、今後は私の敷地内で私の監視のもと生活させますゆえ、どうかお妃御二方には、この者への復讐心や恨みは腹に収めていただきたく存じます」 その言葉に蘭瑛はまた奥歯を噛み締めた。 何故、妃の二人は何も咎められないのか。 それに、監視って…。 蘭瑛は永憐の顔をチラッと見遣るが、今日の永憐はどうやら、目を合わせてくれないようだ。 宋武帝は茶を啜り、口の中を潤した後、また蘭瑛の方を向く。 「蘭瑛。こちらに顔を向けよ」 「はい…」 「こたびの件では、六華鳳宗ならではの正義感が強く働いたのだろう。私もそんなお前を咎めたりはしないが、少し永憐の元で身体を休めよ。いいな」 「はい…」 「ならば、これで終わりだ。下がれ」 蘭瑛は皆の前で拱手し、紫王殿を後にした。 緊張が抜けたせいか、光華妃に叩かれた頬がヒリヒリと痛み出す。蘭瑛は消毒ついでに医局に寄り、久々に顔を出した。 「阿蘭《アーラン》〜!ちょっと、あんたまたどうしたの?」 江医官が心配そうに蘭瑛に駆け寄る。 蘭瑛は先ほどの出来事を話しながら、自分の顔を消毒し始めた。 「まったく…。あの気性の荒い妃、本当にどうにかなんないかしら。昔、ここにいた何人もの老女たちや侍女たちが、あの妃と関わって命を落としてる」 「そう。どれだけのことやれば気が済むのか。はい阿蘭、貼ってあげる」 金医官も話に加わり、薄布を何枚か重ねたものを蘭瑛の頬に貼り付けた。蘭瑛はすぐにその上から寛解の術を施し、江医官が淹れてくれた白茶を啜った。 しばらく三人で光華妃の怪奇話をしたあと、十日間の禁足になる旨を伝え、蘭瑛は医局を出た。 この先どうなるのだろうかと、蘭瑛は胸を詰まらせながら夕陽を眺める。しばらくこの傷は癒えそうにないと、また目に涙が滲む…。蘭瑛は涙を拭いながら歩き、使用している客室の前に到着すると、客室の扉をガサガサと引っ掻いている動物が目に入った。 よく見ると、幼少期に飼っていたのと同じ赤色の目をした、小さな白うさぎがいるではないか。 蘭瑛は思わず顔が緩み、脅かさないようにそっと近づく。 「どうしたの?迷子になっちゃったの?」 独り言のように尋ね、そっと小さな背中を撫でてやる。 すると白うさぎは怯える様子もなく、気持ち良さそうに目を細め、プウプウと鳴き始めた。 「おうちはどこなの?ここにいたら母上が心配しちゃうよ。一緒に林のところまで行こうか?」 蘭瑛はそっと抱き抱え、向かい側の林の雑木林のところまで白うさぎを持っていく。「ここでいい?」と言って放すが、白うさぎは嫌だと言わんばかりに、蘭瑛の後をぴょんぴょんと追いかける。何度か違う方向に歩いてみたり、走って距離を置いてみたりもしたが、白うさぎは蘭瑛から全く離れようとしなかった。 蘭瑛は仕方なく、白うさぎを部屋の中に入れ、出たくなるまで一緒にいてあげることにした。 体が小さく、呼吸も浅いことから、あまり食事にありつけていない様子が見て取れる。蘭瑛は小さな皿に水と、夜食用にとって置いた人参を少しだけ分け与えてやった。すると、白うさぎはお腹が空いていたのか喜ぶように飛びつき、すぐに平らげた。 「少しずつあげるね。急に食べるとお腹壊しちゃうから」 蘭瑛は独り言を言うように、また小さな背中を撫でた。 昔飼っていた子にそっくりだ…。 名前を付けてあげようかと思ったが、蘭瑛は自分が置かれている現状を思い出し、思い止まった。 「一緒にいてあげたいんだけど、ちょっと悪いことしちゃったから、しばらく怖い人の所に行かなきゃならないの。明日にはお別れだから、ごめんね」 蘭瑛は濡らした布で足を拭いてやり、寝台の上に置いてやる。結局、この白うさぎは出て行く素振りも見せず、蘭瑛と一緒に一晩を過ごしたのだった。それは剣門山の山に差し掛かったところで起きた。 前方から二人の高身長な男女が歩いてくるのが見え、蘭瑛は目を見開き思わず立ち止まった。 目に飛び込んできたのは、今蘭瑛が一番見たくない|永憐《ヨンリェン》と|儷杏《リーシー》の姿だった。見てはいけないものを見てしまったかのように、沸き立つ恐怖のような動悸が蘭瑛を襲う。 永憐も前から来る蘭瑛の姿を捉えたのか、その場で立ち止まり、茫然とする。見つめ合う二人の間には氷瀑が幾重にも連なり、決してそちらにはいけまいと言わんばかりの雨氷が吹き荒れているようだ。 茫然と突っ立っている永憐に気づいた秀沁は、憐れむような目を向けて拱手した。 「これは、これは、|王《ワン》国師殿。こんな所でまたお目にかかれるとは。仙女をお連れになるなんて、珍しいですね」 永憐は目を逸らすだけで何も言わない。 代わりに儷杏が答える。 「あら、どなたかと思ったら蘭瑛先生じゃないですか。宋長安では、|私の《・・》永憐がお世話になりました。お二人はどういうご関係なのですか? 随分と仲睦まじく見えますけど。もしかして祝言を控えてらっしゃるとか?」 「ははっ。そのようなご報告ができるといいのですが」 蘭瑛は自慢げに話す秀沁を一瞥した。 永憐は氷のような冷えた目で秀沁を見たあと、「お幸せに。では」と言って消え去るように歩いていった。 (「お幸せに。では」) 否定すれば、こんな一方的に突き放されるような言葉を言われずに済んだだろうか。やっと生傷が塞ぎかけてきたというのに、またその生傷に尖った刃を入れられたみたいだ。 蘭瑛は俯き、目を瞑って「待って〜」と言う儷杏が永憐を追いかける声を受け止めた。 「蘭瑛、ほらな。あいつは……」 「何で勝手なことを言うのよ!! 私がいつ、秀沁兄さんと結婚するって言った?! 勝手にべらべらと私の気も知らずに!! いい加減にしてよ!!」 蘭瑛は涙目になって秀沁に捲し立てた。 「……ごめん。でも、そうでもしないと俺だって……」 「俺だって何よ?!」 「……もたないよ」 蘭瑛の頬に一粒の大きな涙が伝う。 嗚咽が込み上げ、濡れた頬を手で拭いながら「帰る」と言った。秀沁は慌てて蘭瑛の腕を掴んで止める。 「一人でどうやって帰るんだよ?」 「離して! 私はどうにで
あれから、ふた月が経過しようとしていた。 相変わらず傷心している|蘭瑛《ランイン》は、食事の時だけ顔を出し、それ以外は自室に籠り塞ぎ込んだ。 長くなれば長くなるほど|永憐《ヨンリェン》のことが忘れられず、翡翠の指輪を外すことができないでいた。指でその指輪を撫でる度、ほろほろと小さな涙が溢れ、蘭瑛の胸を締め付ける。 いつまでこうしているのだろうか…… 季節は冬へと移り変わっていくのに、自分だけ夏のまま取り残されているようだ。 ある日の晩、相変わらず塞ぎ込んでいる蘭瑛の部屋に双子の|鈴麗《リンリー》が訪ねてきた。「蘭瑛姉様、ご機嫌いかがですか? |遠志《エンシ》宗主がお呼びです。お部屋へ来るようにと」「絶対行かなきゃだめ……?」 蘭瑛は小さな声で扉越しに返事をする。 窓越しに揺れる小さな影が俯き、言葉を選んでいるようだ。「先ほど、|玉針経宗《ぎょくしんけいしゅう》の|秀沁《シウチン》兄様が来られました。蘭瑛姉様のことを心配されての事だそうです。久しぶりにお会いされてはいかがでしょう?」 |秀沁《シウチン》が来たところで、この気持ちが晴れることも、|永憐《ヨンリェン》に対する想いも変わらない。 蘭瑛は「一人にしてと伝えて」と言って、それ以上答えなかった。 それからしばらく寝台の上で寝転がっていると、部屋の壁に差し込んでいた日差しがゆっくりと消えていく。また何もしない一日を終えてしまったと、蘭瑛はまた溜め息を吐いた。そろそろ、|宋武帝《ソンブテイ》との約束の薬を作らなければいけないというのに、心がついていかない。 蝋燭を付けようと、重い腰を上げて寝台から降りると、また扉を叩く音が聞こえた。「蘭瑛。秀沁兄さんだ。ちょっと話せないか?」 さすがに二回も断る訳にはいかないと思った蘭瑛は、扉をそっと開けた。すると目の前には、優しく微笑む眉目秀麗な秀沁が立っていた。「蘭瑛、やっと顔見せてくれた。ったく、酷い顔だなぁ〜。これ持って湯浴みして来い。少し楽になるぞ〜。俺はここで待ってるから、はい! 早く行った行った!」 胸元にぐいっと入浴剤の入った籠を押され、無理矢理外に連れ出される。「気分が晴れるぞ〜。んで、戻ったら少し話そう」 秀沁に言われるがまま、蘭瑛はコクっと頷き、湯浴み処へ向かった。貰った薬入りの入浴剤を入れて、蘭瑛は湯船に浸かって顔を
衝撃的な事実を知ってしまった蘭瑛は、あれから永憐と顔を合わすことがてきず、六華鳳宗へ帰らせてもらえないかと、宇辰を通して宋武帝に申し出た。 事情を知った宋武帝は、至急紫王殿に来るように蘭瑛を呼び寄せ、二人で話しをすることになった。 完全に正気を失った蘭瑛を見るやいなや、宋武帝は気を利かせ、今まで見たことのない豪華な花茶を差し出した。「呼び寄せて申し訳ないな。少し外で話そうか」「……は、はい」 随分と涼しさを感じる夜に、紫王殿の庭では蛍がふわふわと光り始めた。 外のカウチに腰を下ろし、宋武帝は蛍の光を目で追いながら静かに口を開く。「いずれはきちんと話さなければならないと思っていたのだが……永憐のことで、君を酷く傷つけてしまって申し訳ない。全ては私一族の責任だ。今更許しを乞うつもりはないが、当時、剣門山に所属していた永憐が、個人的な意思で君の父上を殺した訳ではないことは、どうか分かってやって欲しい。あれは、私の父上が理不尽に下した命令だったのだ……」 宋武帝は物寂しく空を仰いだ。 その横顔がどこか永憐に似ていて、蘭瑛はふと目線を逸らし、宋武帝の言葉を待った。 「永憐とは異父兄弟なんだ。この事実を知ったのは、十年ぐらい前だろうか。あいつは幼い倅を、祝言を控えていた妻の変わりに助けてくれてな……。せめてもの思いでここに呼んだんだが、少し気になるところがあって。ほら、私と顔が少し似ているだろう? だから、あいつの出自をこっそりと調べさせたんだ。そしたら、永憐はあの伝説の剣豪・冠月と母上の間に授かった子であると知って、それはそれは驚いたよ。私は永憐を弟だと思っているんだが、あいつは、自分を物凄く卑下な人間だと思っているらしく、自分は私の配下でいいと、皇弟として自分の立場を絶対に認めようとしないんだ」 何一つ自分のことを話さない永憐に、そんな秘密があったとは誰も知る由もない。 宋武帝は飛んでいる蛍を素手でそっと掴み、蘭瑛に見せながら続けた。「そんなあいつがある日突然、君を連れてきた。色欲も断ち、女の話に一寸とも触れようとしなかったあいつがだ。不器用で言葉足らずな奴だが、君には何か思うところがあったんだろう。誰よりも君のことを考えていたからな」 それは分かる。いつだって側
美しい月夜は儚げに消え去り、夢が覚めていくように二人の元に太陽が昇る。 「蘭瑛、朝だ。起きろ」 「…んーっ。ふぁい」 蘭瑛は欠伸をしながら上体を起こす。 永憐から寝巻きを渡され、寝台から降りて衣をさっと着る。 昨晩のことは途中までしか覚えておらず、途中から疲れ果てて眠ってしまったようだ。 「昨日はすまない。加減を忘れてしまっていた…。身体は大丈夫か?」 「…はい。大丈夫ですよ。私、途中で寝てしまったみたいですね。すみま…」 「せん」と続けようとした刹那、永憐に力強く抱きしめられた。 「嫌いにならないでくれ…」 「…ど、どうしたんですか?急に。永憐様を嫌いになる訳ないでしょう」 永憐は失うのが怖いといったような、どこか不安げな顔を蘭瑛に向けた。 今日から仙術の強化稽古が始まり、しばらく会えなくなると聞かされたが、稽古が終わったらまた会う約束をし、優しく口づけを交わした。 蘭瑛は隣の部屋に戻り、身支度を整えようと、寝巻きを脱いで鏡を見た。すると、首から下の上半身のありとあらゆる場所に、口づけの印を付けられていることに驚愕した。 (あれから、たくさん口づけされたんだっけ…。どうしよう…この無数の跡。何で隠そう…) 蘭瑛はとりあえず、葯箱から包帯を取り出し首元に巻き付けた。医局のオカマ医官に何か言われるかもしれないが、適当に遇らえば問題ない。蘭瑛は冷静さを保ちながら、医局へ向かった。 医局に到着すると案の定、オカマ医官二人に詰め寄られる。 「阿蘭、どうしたのよ?!その傷!ちょっと見せてみなさい」 「一体何をやったのよ…」 「だ、大丈夫だから!本当に直ぐ治る傷だし、二人の心配には及ばないから」 江医官と金医官は、目を細めて蘭瑛を一瞥する。 「阿蘭、また誰かに何かされたんじゃなくて?」 「ったく、女の首元に傷を負わすなんて、どういう神経してんのよ!もし男だったら、男根の先にこれを差し込んでやるんだから!」 金医官は、薬草を混ぜる先の尖った太い銅の棒を光らせた。これは、永憐にされたなんて口が裂けても言えないと、蘭瑛は思わず苦笑いを浮かべる。 「本当に大丈夫だから。六華術を復活させる為に色々やっちゃって…。それで」 「それで、六華術は復活したの?」 江医官に
もう逃げられないと意を決して、蘭瑛は急いで湯浴み処へ向かい、簡単に湯浴みを済ませた。 半乾きの髪を靡かせ、急ぎ足で藍殿へ戻る。 蘭瑛は永憐の部屋の扉の前で「ふぅー」と呼吸を整え、蝋燭の光が漏れている薄暗い奥の部屋に足を踏み入れた。 中に入ると、寝台の上で腰を下ろし、長い髪を垂らした寝巻き姿の永憐が待っていた。 「来たか」 「お待たせ…しました…」 蘭瑛は固唾を飲み、恐る恐る永憐の元へ歩み寄る。 永憐は真顔で、蘭瑛に向かって一言投げかけた。 「覚悟はあるのか?」 そう言われた蘭瑛は、その場で立ち止まった━︎━︎━︎。 決して覚悟がない訳ではない。ただ理由を話さなければと蘭瑛は六華術を回復させる為に、このような事を口走ったと話した。 「ならば、術の為にしたいということか?」 「いや、そ、それだけでは…」 蘭瑛はそれ以上何も言えず俯く。 永憐は間を置いて、もう一度問うた。 「どんな理由があっても、後悔しないか?」 蘭瑛は永憐の事を心から愛している。 いずれは夫婦の契りを交わしたいとさえ思っている。 術が回復することもそうだが、一番は永憐と口づけ以上の結びつきを得たいと心のどこかでは思う。そこに迷いや後悔はない。蘭瑛は心を決めたかのようにハッと顔を上げ、自分の衣の腰紐をしゅるっと外した。 「…しません。何があっても」 そう言いながら、蘭瑛は衣を少しはだけさせ、寝台の上へ登る。 そして、足を伸ばして座っていた永憐の上に跨り、永憐の目の前で衣を完全に脱いだ。 艶やかな肌を見せられた永憐は、蘭瑛の腰にそっと手を回し、蘭瑛の顔に自ら顔を近づけた。 「本当にいいんだな?」 「…はい」 息をする暇もなく、蘭瑛の唇は瞬く間に塞がれた。 永憐は何度も優しく向きを変え、蘭瑛の乾いた唇を湿らせていく。永憐の力強い舌遣いで閉じていた口をこじ開けられ、何度も舌を絡め取られた。舌を這わせ合うたび、水が弾くような音が部屋中に響き、鼻から漏れる荒い息が熱く交わる。 露わになった胸を何度も揉まれ、永憐の細長くて力強い指先で、先の突起を何度も弄られた。 身体全体に体験した事のない電流が走り、蘭瑛は我慢できず「んんっ」と思わず声を漏らす。唇が離れ、互い
それから、今までの輝かしい穏やかな橙仙南の色は消え、朱源陽の武官たちは橙仙南の庶民たちを蔑ろに扱うようになり、逆らおうものなら直ちに打首にされるという理不尽な内乱が勃発した。 橙仙南の一部の軍は朱源陽の傘下に入る者もいたが、深豊《シェンフォン》率いる軍は主に宋武帝の配下に身を置き、永憐たちと並ぶ形で桃園の義を交わした。 朱源陽の理不尽な要求や暴力が日に日に増していくことを懸念した宋武帝は、橙仙南の難民たちを宋長安へ避難させた。宋長安に住む人々の人柄は他所者を嫌う性格ではない為、難民たちとの間には争いや弊害などは生まれず、互いを尊重しあう形で生業を保つことができた。 秋めいてきた夕暮れの下で、蜻蛉の美しい複眼が、飛び回る害虫のハエを捉える。 瞬きをしたほんの僅かの間に、ハエは蜻蛉の口元で砕かれ、もう一度瞬きをした後にはもうハエはいない。 その卓越した動体視覚と俊敏さを駆使して、獲物を一瞬にして捕える。さすが勝利の虫だ。 その様子を窓越しから見ていた宋武帝は、永憐と深豊を紫王殿に呼び出し、向かい合っていた。 何を言われるのか大体想像のつく二人は、出された茶を啜りながら宋武帝の言葉を待つ。 「蜻蛉のようにならねばならんな…」 宋武帝はぼそっと独り言を呟いた。 そして目線を二人に戻し、続ける。 「今後のことについてなんだが…。いつ、朱源陽の矢がこちらに飛んでくるか分からない。いつでもその戦火が飛び込んできてもいいように、お前たち全員が持つ仙術の強化を図って欲しい。それに伴い、宋長安管轄の剣士たちも各方面から呼び寄せることになった。お前たち二人が師範となり、全体の底上げを頼む」 永憐と深豊は、同時に頷き『御意』と返事をした。 力強い二人の返事を聞いた宋武帝は、顔を緩ませ穏やかな表情を向ける。 「お前たちが居れば、私に怖いものなどない」 「全力でお守りします」 「橙仙南を代表して私も…」 永憐の後に続けて、深豊も誠意を表すように言葉を繋げた。 一方、蘭瑛のいる医局では環境に慣れず体調を崩す橙仙南の者たちが多く、問診に追われていた。 「食欲がなくて…」 「気持ちが塞ぎがちで…」 「涙が止まら







